日々是、徒然に愚問自答

生来の小心者なのか、単に暇なのか、、、、日々悶々と悩みや疑問が浮かびます。しかしながらその大半は取るに足らないことで、人様の貴重なお知恵と時間を拝借するのもはばかれます。そのため、自ら産んだ愚問には自ら答えて始末をつけようという試みです。通勤電車等でご賞味くださいませ。

愚問自答「やりたいことがないとダメか?」

大型連休です。

旅行に行ったり、イベントに行ったり、はたまたマッタリと本や映画を楽しんだり……、色々な過ごし方があると思います。

 

ただ、ニュースを見ると「予定を埋めなきゃ」「充実させなきゃ」、もっと言うと「何かしなくちゃ」という一種の強迫観念に駆られている人もいるようです。

 

マッタリ派な僕としては「そんな、無理しなくても…」と思いますが、他方、「これってキャリアも一緒だなぁ」と思ったりしました。

 

というわけで本日の愚問自答は「やりたいことがないとダメか?」として、ホノボノと思考してみます。

 

個人的な所感として、現代日本は「応援社会」になっていると感じています。

大きなことから小さなことまで、「世の中/友人/家族/自分のために何かしたい!」という活動を「イイね!」で応援し、お金やお手伝いで支援することがゆるやかに積極的な社会。

 

非常に良いことだと思います。

 

ただ、僕も含めて「特にこれといってやりたいことは…ないかな…」という人間にはそういった"日向"が眩しすぎて、後ろめたさを感じることがあります。

 

勝手に後ろめたさを感じているだけだから、世間は「そんなこと気にしなくていいのに」と言うでしょうが、なんとなく日向の明るさが心の影を作るのでしょうね。

 

しかし、僕としては「やりたいことをやっている」と「やりたいことがない」はそもそも性質が根本的に異なると思います。

 

「やりたいことをやっている」というのは、Will(やりたいこと)とCan(できること)とDo(していること)が重なっていて、そのポイントは「絞り込み」と思います。

おそらく、突然やりたいことの啓示を受け爆進できる人はレアで、多くは最初は好きでもなんでもなくても、何かをやってるうち(Do)に、できるようになり(Can)、それが得意になると、他者への影響力も高まるから、その得意技を使って成し遂げたいことに取り組む(Will)という構造かな、と。

ここでのミソは、Can→Willへ移行する際に「これだ」というものを絞り込んでるわけです。

 

一方、「やりたいことがない」というのはおそらく、ただ在る(Be)状態を指すわけであって、DoやCanやWillといった動作動詞とは異質ですね。

その意味では、何かを絞り込むという制約を課さないため、上述のDo→Can→Willの工程を踏まないことになります。

絞り込まないゆえに、自由だし、制約もない。

 

 

性質が異なるものを比較すること自体、あまり意味のないこととも思いますが、何となく日陰になりがちな「やりたいことがない」人を励ますなら…

 

やりたいことをやっている人はできることしかできない。

やりたいことがなかなか見つからない人は可能性が溢れているし、また絞り込む必要がないという状態そのものが、満たされている、とも言えるのではないでしょうか?

 

結論:

堂々と日陰を歩こう!