愚問自答「役立った教育とは?」
高校時代の先輩と話す中で、教育について考えるきっかけをいただきました。
お互い色々紆余曲折あり今に至るなか、なんだかんだで先生から教わったことは多いなぁと思いました。
というわけで僕は学校教育については専門家ではないですが、あくまで自分の体験を元に、今だから思う「役立った教育とは?」について考えてみようと思います。
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ナイスミドルな僕が半生を振り返り、人生の分岐点とも言える出会いは自然と高校時代にありました。
1.ダラっとしつつイイ感じの部活
2.哲学
3.価値の判断軸は一つじゃないという感覚
それぞれ振り返ってみます。
1.ダラっとしつつイイ感じの部活
一応運動部に所属してたのですが、ビックリするくらい上下関係にフリーダムな部活でして、挙句同期も超絶テキトーだったので、3年間でちっとも上達しなかっですw
そういう意味では青春スポ根の人には頭叩かれそうですが、このダラっとした雰囲気が好きでした。
ダラダラと駄弁ってる中で「これはなまら面白い」というヒラメキが出てくるもので、やっぱリラックスするのが頭にとって良いねと思いました。
そんなわけで、僕が今でも仕事選びの基準としてるのは「部活みたいな雰囲気」でして、一見ふざけてるようでも、案外それが本質だったりするプロセスを許容してくれる組織に常に身を置きたいですね。
2.哲学
これは先生の影響が強い。
社会の先生が元々哲学を専門とされていて、僕はこの先生に出会って哲学を知りました。
そいで、僕は哲学に傾倒した時期があり、そこでデカルト的な論理的思考やフッサールのような抽象思考を学びました。
この経験は今の仕事でも生きていて、物事の本質を追究するには哲学者の思考アプローチが極めて有効です。
僕は「哲学こそが学問の中の学問」と思っているので、西洋哲学が中心ですが、知識産業に身を置くものとしてベーシックかつ汎用的な思考体系を学びました。
3.価値の判断軸は一つじゃないという感覚
高校のときは色々やってみたかったので、勉強にスポーツ、はたまた音楽活動に精を出してました。
ここまでやっておいて全然モテなかったのは自分の不徳の致すところですが、それはさておき、
「人は試してないだけで、実は色んな才能が花開く可能性がある」
ということを思いました。
要は勉強だけあげれば自分より出来る人なんざ数多いるわけで、必ず挫折します。
ただ、そこからが人生の妙味で、そのタイミングで「自分はホントは何が好きだろう?」と思い起こし、このとき、価値の判断軸が「他人軸」から「自分軸」に変わると思います。
あまり自分軸が強過ぎるとめんどくさい人間になっちゃいますが、思春期には一度くらいセルフィッシュになってもいいんじゃないでしょうか。
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というわけで、世の中の風潮では学校教育と社会には乖離があると言われてはいますが、そりゃ学習指導要領だけにフォーカスした話で、学校という場の教育全体で見れば超絶役に立つことも多いと思いました。
結論:
友達、真理、自分の見つめ直し、という点で教育はとっても役に立ってます。