愚問自答「なぜナイスミドルになると教養を欲するのか?」
"教養"や"リベラルアーツ"という言葉を多用するのはおこがましく、実はあまり好きではないのですが、それでもナイスミドルとなり明らかにビジネススキル的なもの以外に興味を持つようになりました。
そのような"直接仕事に使うわけではない知識"を便宜的に"教養"と呼ぶことにして、ナイスミドルになって教養に興味を持ったメカニズムを愚問自答してみます。
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僕が教養を欲するようになった心の動きを分解すると以下かなと思います。
1.一定年齢になるとビジネススキルは効用の弾力性が低くなる
2.物事を語る上での背景理解の重要性に気づく
3.周囲も教養に関心がある
それぞれ考えていきます。
1.一定年齢になるとビジネススキルは効用の弾力性が低くなる
20代の頃は目の前の仕事における効率や質の向上のためにビジネススキルの勉強に力を入れてました。
具体的には、フレームワークのバリュエーションを増やしたり、ケースを読んだり、法律をインプットしたり、はたまたエクセルの技を学んだり…という感じです。
これはカッツモデルでいうところのジュニアポジションでは専門知識・技能の習得がアウトプットにつながることにも通じていると思います。
勉強すればするほど、今日明日の仕事に活きるので、結構充実していました。
一方で30代に入るとビジネススキルは実践の中で如何に自分の型を磨くか、という応用の世界に入り、個別性が高まるため、本を読んだりするだけではなかなかアウトプットの伸びを感じづらくなりました。
(もちろん、修士のように一段高みの知識や応用的な考え方を学ぶことで伸ばす余地は十分にあります)
また、正直に言えば僕レベルであればビジネススキルにおいて他者より秀でるのも限界があります。
業界知識や地頭について、圧倒的に優れた人に出会ったりするわけです。
そうなると、これまでスキルのインプットに使っていた時間や読書欲の行き先として、ビジネススキル以外の分野に向くのも自然と思いました。
要は「わかりやすい仕事の能力」よりも自分の内面に向き合うようになってきたわけです。
2.物事を語る上での背景理解の重要性に気づく
これは仕事において、説明者としての役割責任が上がるに連れ実感したことです。
僕は「あらゆる可能性を考えて結論を導きたい」という困った性質の持ちなので、そうなると別に誰も求めていないのに「その背景は何?他の要因はないか?」という声が脳内を巡ります。
あとは過去の自分の説明内容を振り返ると「論理の飛躍が多い」と思うこともあり、行間を丁寧に埋めようと思ってきたこともあります。
端的に言うと、
「そう言い切っていいのか?」
を何度も何度も深掘りするのですが、
そうするとビジネスのテーマでも地政学や社会学的な背景を押さえる必要性が生じてきます。
相手に伝えることはパワポ1枚でも、その1枚に自信を持つには膨大な背景を確認したくなるわけです。
例えば僕は一応「大企業製造業におけるイノベーション」を専門にしていますが、やり始めの段階では明治時代からの産業史をひたすら振り返ってました。
そうすると自ずと日本の歴史的なポジション、比較対象としての欧米の歴史的な変遷を押さえる必要があります。
また、イノベーションには組織設計が重要になるため、そうなると人材流動性や雇用慣習への理解が必要となります。
すると、各国の現代法体系が大事な要素となり、さらに深まると地政学に行き着くわけですね。
これは単純に時間的な効率だけ考えるとめちゃくちゃ非効率なのですが、シニアなポジションにつくということは量より質や重みにコミットすることと捉えれば、やむを得ないかなと思っています。
3.周囲も教養に関心がある
これも大きい!
ナイスミドルになると自然と周囲に教養深い方が集まってきました。
非常に良いのは、教養深い方と話す中で自分の足りない部分が自ずと見えてきて、それを後で勉強して埋めるのがとても楽しいですね。
あとは教養と一口に言っても範囲が広大なため(元々ソリッドな定義もないため)、他者の知識そのものよりも「なぜこの人はそれに関心を抱いたか」が興味深いです。
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と、ここまで書いて思いましたが、単に勉強が好きである、というだけな気もしました笑
もちろん目の前の仕事もきちんとやりますが、ナイスミドルの期間は自分ならではのクオリティの追究の旅かなーと思っています。
結論:
教養は知識というより自分の内面の深掘り。
でも、仲間がいると教養はとても楽しい。