愚問自答「自己肯定感が高い人と低い人の違いは何か?」
自粛によって遠出やイベントごとができなくなった分、様々な本・ブログ・動画を観たり、友人と電話/チャットしたりして、色々な考え方に触れる機会が増え、自粛前よりも充実している気もします。
特に小説・映画といったフィクション作品を愉しむ時間が増え、一般書・ビジネスコンテンツとは異なる角度から色々と学ぶことが多いです。
僕が好きなタイプのストーリは、『過去の挫折などで自分のことを好きになれない主人公が、あることをきっかけに前向きさを取り戻していく』というもので、ヒューマンドラマの王道といえば王道ですが、こういった作品はとても心が温かくなります。
そんなこともあり、最近は『自己肯定感』に興味があり、どうやら『世の中には自己肯定感が高い人と低い人の2種類の人がいる』ということに気づいたので、そのテーマで愚問自答してみます。
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『肯定感』を『自分に対するもの』と『他者に対するもの』に分け、その高低から、映画に出てくるキャラクターになぞらえて、以下のように分類してみます。
僕がよく観る小説・映画では、
・主人公は『人がいい人』だけど、押しが弱くて損することが多い
・自分の日常に『なんだかなぁ~』と思っているところに、不意の出会いがある
・色々とチャレンジする中で自己肯定感を高める
という『成長物語』を経ます。
逆に、自己肯定感が低いままでは『人がいい人』止まりで、ダークサイドに落ちる(他者肯定感も低くなる)と、主人公の友人だったのがいつの間にか『裏切る人』になったりするから、なかなか悩ましいものです。
かたや成長、かたやダークサイド、ということで、その2つの違いを考えてみました。
1.成長物語:自分を許す
フィクションでも現実でもそうですが、自己肯定感が低い人のクセとして、何かの拍子に言われたダメ出しをいつまでも心の中で反すうして思い出してしまう…ということがあります。『心の傷』ってやつです。
ただ、現実世界でもそうですが『心の傷』は一人相撲なんですよね。自分で自分を責めたり卑下したりしている。
つまり、自己肯定感が低い状態というのは『あったかもしれない可能性の中の自分(理想やこうだったかもしれない)』と『今の自分』を比較して落ち込んでいる状態なのです。
例えば、以下のようなものがあります。
・もっと勉強を頑張って第一志望校に受かっていればもっと充実した青春だった
・面接のとき緊張してなければ、希望した企業に入ってヤリたい仕事ができていた
・もっと積極的に人に話しかけていれば恋人ができて幸せな家庭を築いていた
…どれも『あったかもしれない可能性』です。そして『今の自分にはないこと』です。
こういった『パラレルワールド』をいつまでも振り返っても、あまり良いことは起きないのです。それよりも『自分を責めるのをやめよう』と『許し』をきっかけに物語は進んでいきます。
許すというのは悪いことや失敗を許すというよりも
『必ずしも順調ではなかったけど、自分は幸せになっても良い』
と許可を出すことだと思います。
2.ダークサイド:人と比較ばかりする
一方、自分を許せないばかりか、他人を軽視するようになる人は、常に『人との評価』の中で自分を位置付けて生きています。
例えば以下のような感じです。
・自分の方が優秀なのにあいつの方が幸せなのは許せない
・こんなに頑張っている自分が認められないのは周りがおかしい
・自分が評価されないということは、こんなダメな環境は自分のいるべき場所ではない
つまり、相対的に他者を落とすことで自己肯定感を得ようとするわけです。これってあまり健全でないですよね。
ただ不思議なことに、小説・映画では一目瞭然で「あー、ダークサイドに落ちそうだな」と分かるのに、現実だと自分を客観視できないのですよね。
現実世界で見る限り、『〇〇社のXXより、うちの□□の方が美味しい/優れている』といった他者(他社)への批判が多い人はダークサイドに落ちそうな匂いを感じます。
(多分、本人は気づいていないと思うのですが、結構多いです)
この場合、『自分>他者』という形で、他者がいないと自分を認められず、過度な他者依存に陥ります。
しかも、他者に依存する割にはその他者を批判するのだから、他者から嫌われていく…という悪循環です。そうなることで、内心が傷つき益々自己肯定感が低くなる…という仕組みなのだと思います。
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現実がつらいのは、自分が『良い人』『人がいい人』『傲慢な悪人』『裏切る人』のいずれにもなりうるところですね。
今回、『傲慢な悪人』については触れませんでしたが、それはまた別のところで書いてみます。
結論:
結局のところ、自分を許すという前向きな姿勢でしか自分を認められない。