愚問自答「やっぱり教養は必要か?」
教養について以前も愚問自答しましたが、考えをアップデートしたので再度の愚問自答です。
※以前の投稿はこちら↓
「なぜナイスミドルになると教養を欲するのか?」
https://piropiro2000.hatenablog.com/entry/2019/08/15/093717
最近、とある本を読み、
「中世ヨーロッパで騎士は先頭で戦わないといけない立場であり、死生観を養うためにリベラルアーツを学んだ」
という説を知り、「教養についての教養不足」にハタと気付きました。
そういうわけで、今回は「やっぱり教養は必要か?」という点で愚問自答します。
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教養の必要性については以下2点で考えてみます。
1.受容性の拡大(内面)
2.人とのコミュニケーション(外面)
【1.受容性の拡大(内面)】
前述した死生観を養う、というのはコレに該当すると思います。
さすがに中世の騎士のような状況に対峙することは稀と思いますが、人生では悩みが尽きないものです。
現代では「問題→解決」となりがちですが、それよりも「問題を受け入れること」の方が大事と思いました。
すぐ解決できることなら元々悩まないですしね。
一方、「受け入れる」という行為は非常に難しいものです。
僕自身、割と平凡な人生を生きているつもりではありますが、それでも「なぜ自分がこんな目に…」と思うことがあります。
そのとき目の前のことばかり考えると袋小路にハマり、鬱々とした気分から抜け出せないため、一歩引いてみることが大事です。
この「一歩引いてみる」方法には色々あります。
友達と話してみたり、バーでシンミリとしたり、映画を観たり…。
(お酒に弱いのでバーで一人で飲んだことはありませんが…)
「一歩引いてみる」方法の一つに教養があると思いました。
先人や世界の出来事を知ると、自分の悩みとは何とちっぽけなことだろう!と思えてきます。
そして「自分より遥かに頭の良い先人が解決できないのだから、悩むのも当然だし、無理に解決を急がなくて良いのだ」という気分になります。
そういう意味では、教養というのは知識ではなく、物事の受け止め方を広げる効果があると思いました。
【2.人とのコミュニケーション(外面)】
こちらは教養というより雑学と言った方が近いです。
人と話をする中で、「なんか僕の言いたいことが伝わらんな」ということがあります。
理由として、「説明の順番が悪い」「自分自身が理解していない」という根本的なものもありますが、意外と「例え話が相手に馴染んでいない」というものもあります。
例えば(例え話について例えるのも妙ですが...)、ポピュラーなものとしてサッカーで例えて説明する人が一定数います。
僕は「サッカーの知識=キャプテン翼」なので、実は現実のサッカーで例えられても良く分からないという困った事態になります。
こういうことはテーマによって種々様々あり、何の比喩なら伝わるかは人によって異なります。
似て非なるものですが僕はキャプテン翼で例えてくれるとよく理解できます。
(物事をキャプテン翼で例えてくれた人にはこれまでの人生で二人しか出会っていませんが…)
人によってピンとくるテーマが、スポーツかもしれないし、音楽、文学、漫画、映画、絵画、社会福祉、機械、数学、政治など様々です。
要は「コミュニケーションの引き出しは多い方が相手に優しい」ということです。
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教養については即物的に役立つものでもないと思います。
まして、得た教養をひけらかす必要は全くないです。
それでも教養を欲する人が一定数いるのは、悩みや対人での負荷がある世の中なのかもしれません。
結論:
自分と他者に優しくなるために教養があると良い!