愚問自答「なぜ人は自称・無趣味になるか?」
先日友人が「自分は無趣味だ」とつぶやいており、思わず「僕も無趣味」とコメントしました。
一方で僕を含めて皆、大なり小なり『余暇の時間』があり、何かしら私的活動をしていると思います。
例えば、通勤時間で本やマンガを読む、ゲームをする、お菓子を食べる、自宅でコーヒーを飲む、バーで一杯飲んでから帰る、音楽を聞く、ランニングするetc…、日常生活の中にも私的活動は色々あるわけです。
では、なぜそれを趣味と言わないのか?
ここに悩める現代社会の謎があると思ったため愚問自答してみます。
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人が自称・無趣味化する背景に、大きく以下2つがあると思います。
1.リア充の道具としての趣味
2.セミプロ化しつつある趣味
【1.リア充の道具としての趣味】
どうしてか分かりませんが、大人が趣味を公言するとき、若干『リア充』色が漂うのはなぜでしょう?
例えば、ランニング、サイクリング、ヨガ、料理など『健康に良さそうなこと』は趣味として鉄板です。
映画、読書(含むマンガ)、芸術鑑賞、ファッションのように『文化的なこと』や、会合、スポーツ観戦など『人と交流のあること』もよく聞きます。
また、多くはないけど「おーっ」となるのは筋トレ、ゲーム、コレクション、食べ歩きのような『探究的なこと』です。
このように考えると、人に紹介する趣味とは『身体的または精神的な充足感があるもの』と言えそうです。
逆に言えば、『何らかの充足感があれば趣味と言って良い』のかもしれません。
例えば「たくさん寝るのが趣味」というのも『ストレス解消』という効果をセットで言われれば「それもアリだよね」という印象を受けます。
一方でどれだけ頻度が高くても、充足感がないものは趣味とはならないかもしれません。
例えば平日に毎日自宅から最寄駅まで歩くのは必要だからやっていることであり趣味とは言いづらいでしょう。
ただし、休日の朝に「早起きのため」という名目で同じことをすれば『趣味:ウォーキング』と言えそうな気もします。
つまり、『やらなきゃいけないという必要性のないこと』を『体や気持ちの満足のため』に敢えてやれば、それは趣味と言えるのかもしれません。
しかし、このような『趣味の理由』というのが必要なのかは大いなる疑問です。
【2.セミプロ化しつつある趣味】
趣味についてよく聞かれる質問が2つあります。
・1つ目「オススメは何ですか?」
・2つ目「どれくらいしてるのですか?」
1つ目は純粋な興味にせよ社交にせよ、会話を弾ませる上でよく使う質問と思います。
これは良いのです。1つでもオススメを言えれば会話になるし、オススメというのは個人的な好き嫌いなので、回答する側は自由に話せます。
困るのは2つ目で、何となく『多くなくちゃ好きと言っちゃいけない』雰囲気を感じてしまうのは僕だけでしょうか?
例えば、『映画観るのが趣味』と言おうかな?と思っても、勝手に自分の頭の中で
「そうは言っても今年に入ってまだ映画館で1本しか観てない」
「よく考えたら映画館で観るのは年4〜5本くらい」
「レンタル合わせても年間20本も観てないかも」
と思考が巡り、
「せめて毎月1本は映画館で観ないと『映画観るのが趣味』と言ってはいけないのではないか?」
と思って、ためらってしまいます。
こういった『趣味の定量化』として、ザッとこれまでの会話を振り返って思いつくことを書くだけでも以下のような『投資の尺度』があります。
・鑑賞した数
・使ったお金
・頻度
・場所(現地か家か)
・年数(昔からか最近か)
これは『誰それより多い少ない』という他者との比較よりも『これくらいはやってないと趣味とは言えないのでは?』という自己の中での思い込み基準と思います。
難しいのは『それで食べていける状態』になると『趣味』を超えて『生業=プロ』となるため、『趣味』は『プロじゃないけど個人的に投資していること=セミプロ』レベルじゃないと、人様に言えない…という意識が働いているのかもしれません。
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趣味というのは人様に迷惑をかけないこと、自分の中で「これが趣味といえば趣味かな」と思えれば、正直何でも良いと思うのです。
ただ、それを人前で言うときにためらうのは、キラキラした「いいね」いっぱいの他者の投稿と自分を比較して
「たくさんお金や時間をかけてるのは、見返りとかじゃなくコレが好きだから!と言えるものじゃないと趣味と言っちゃいけない」
という心理が働くからかもしれません。
別に趣味について他者から共感を得る必要はないと思いますが、それも無視できないのが現代なのかもしれません。
結論:
趣味を定量化するのはヤメよう